先日、平秀信先生のレポートの中で、「マイクロ法人」という言葉が紹介されていました。しかし、この「マイクロ法人」に関する実態は、なかなかイメージしにくいものと思います。

この捉えどころのない「マイクロ法人」を、みなさまにリアルにイメージしていただきたい。それがこのレポートを書く、たった一つの目的です。

* 今回のレポートのテーマ

sankaku 自由に生きるための戦略
sankaku サラリーマンであることのリスク
sankaku サラリーマンに作用する引力
sankaku 独立起業の失敗事例
sankaku スティーブジョブスの教え
sankaku 運がよくなる秘訣
sankakuマイクロ法人」が大手企業を相手にできる理由
sankaku 雇われない/雇わない生き方
sankaku 計測されるものは改善される
sankaku 苦手な英語をモノにする方法
sankaku 人を動かす極意の身に付け方


「マイクロ法人は、この中では影山さんだけだね」

これは、先日9月7日に開催された「平秀信のプライベートクラブ」における平先生の言葉です。

プライベートクラブとは、月に一度開催される経営者が集まる勉強会。平先生がビジネスから私生活(プライベート)に至るまでのすべてを、本音で包み隠さず教えてくださることが、その名前の由来です。

平先生が「会員さん」と呼ぶ10万人を超えるメンバーの中から、最も濃密な教えを直接受けることが許された10人の経営者がその生徒です。


「マイクロ法人」とは?

平たく言うと「一人会社」のことです。社員を雇うことなく、社長一人で仕事をしている会社を指します。

影山以外の経営者は、みな社員を雇用して事業を行っています。その社員数は2名から数十名までと幅はありますが、10名の生徒の中で社員ゼロなのは影山一人だけなのです。



自由に生きるための戦略


話がいきなり飛んで恐縮なのですが・・・

作家の橘玲氏は、「貧乏はお金持ち」という著書のまえがきで大変興味深いメッセージを綴っています。

 

いま必要なのは、
自由に生きることの素晴らしさをみんなが思い出すことだ。

「安定」を得る代償に「自由」を売り渡すのはもうやめよう。

そんなことをしたって、
会社がつぶれてしまえば
結局なにもかもなくなってしまうのだから。

ここで言いたいのは、
「サラリーマンを辞めて独立しよう」とか、
そういうどうでもいいことじゃない。

一人ひとりが「自由に生きるための戦略」を
持たなきゃいけないっていうことだ。


「自由に生きるための戦略」という言葉は、耳障りはとてもよいのですが、なにかとても難しい特別なことのように思えます。

しかし、「マイクロ法人」という道具を上手に使えば、この戦略を実行することが思いの外簡単となり、とてつもなく大きな恩恵を受けることができることを、橘氏は教えてくれています。

 

あなたが「マイクロ法人」になる!?

冒頭で紹介したプライベートクラブの3日後に、平先生から影山の元に、1通のメールが届きました。


影山さんが「マイクロ法人」としてやっている方法を

レポートにまとめてほしい


国も、会社も信じることのできなくなったこの日本で、これから「マイクロ法人」が急速に増えていくと、平先生は予測しています。

そして、「マイクロ法人」を目指すサラリーマン達を、本気で応援していきたいと考えておられます。

 

しかし、多くのサラリーマンにとって、自分が「マイクロ法人」になる姿をイメージすることは、とても難しいことだと思います。

当たり前な話ですが、サラリーマンの周りにいる人は圧倒的にサラリーマンが多いはず。「マイクロ法人」を友人や知人に持つ人はごく一握りだと思います。

仮に「マイクロ法人」の知り合いがいたとしても、彼らのワークスタイルやライフスタイルを詳しく知る機会は、ほとんどないかと思います。

そこで、現役「マイクロ法人」である影山に、声が掛けられたのです。

 

今さらですが・・・

ここまでお読みいただきありがとうございます。

はじめまして、私は影山勝巳と申します。

ここで、少し自己紹介をさせてください。

影山 勝巳 (かげやま かつみ)
パイオニアプロジェクト株式会社 代表取締役
IDEA DEVELOPMENT株式会社 企画部長

東京都東村山市にて、妻と息子(2歳)と3人で暮らす

1965年      東京都文京区生まれ
1990年      東京大学工学部産業機械工学科 卒業
                 日本たばこ産業株式会社(以下、JT)入社
2000年      JTを退職、フリーエージェントとなる
2001年      パイオニア美術印刷株式会社 代表取締役に就任
2003年      「マイクロ法人」となる
2005年      パイオニアプロジェクト株式会社へと社名変更
                 IDEA DEVELOPMENT株式会社 企画部長となる

顧客企業(一部を抜粋)
IHI、旭化成、アステラス製薬、オリンパス、KDDI、サッポロビール、資生堂、西友、全日本空輸、電通、凸版印刷、日産自動車、野村證券、日立製作所、日立物流、ブリヂストン、三井物産、楽天、リコー、ほか

 

履歴書風に自分のことをご紹介すると、このようになります。

しかし、これだけでは、みなさんのお役にはまったく立てないと思います。平先生が、影山からみなさんに伝えてほしいを思われている内容とはかけ離れているはずなのです。

 

私が本当にお伝えすべきことは・・・

            ・サラリーマンを辞めて独立した本当の理由

            ・独立後に引き起こした失敗の数々

            ・失敗の連続から脱出できたきっかけ

            ・「マイクロ法人」として生きる現在のワークスタイル

 

このようなことだと思います。

それではここから先、私影山勝巳がサラリーマンから「マイクロ法人」へと変化していった軌跡を、順を追って正直にお伝えしていきます。

 

 

まずは大学入学前後の出来事から


東大に入った途端、「落ちこぼれ」に

入学して最初に受けた「解析」の授業(数学の一分野です)での出来事。

おじいちゃん先生がボソボソと小さな声でつぶやきながら、難解な数式を黒板に書いて進める授業を、私はまったく理解することができませんでした。

「こんなひどい授業じゃ、誰も分かるわけないよな」

授業が終わった後、私はクラスメイトに向かって、こう気安く不満を漏らしていました。すると、驚くべき事実が判明しました。

みんなちゃんと分かっている・・・

私を除く周りの全員は、この難解な授業を完璧に理解していたのです。

「ああ、落ちこぼれのつらさって、こういうことだったんだぁ~」
と生まれて初めてその痛みを理解することができました。

 

また、第二外国語であるドイツ語の授業でも、ビックリさせられました。

入学直後から自動車運転の教習所に通い始めていた私は、最初の2回ドイツ語の授業を欠席していました。

そして、3回目の授業に初めて私が出席したとき、クラスの全員がドイツ語の教科書をスラスラと朗読しているのです。わすが2回の授業で、教科書に書かれたドイツ語を普通に読んでいるのです。

彼らと私とでは頭の出来がまったく違うのです

以前より、薄々は分かっていたことなのですが、これほどまで決定的に違うとは思いもしませんでした。

 

私が卒業したのは多摩地区の都立高校。進学校ではありましたが、現役で大学に進む男子は、クラスでたった一人だけ。

残りの男子全員は予備校に行って、一年遅れて大学に入るのが普通という感じでした。

そして、予定通り浪人生活を始めてからわずか3週間目のこと。予備校で知り合った友達から、こう声を掛けられました。

「必勝法を教えてあげるから、一緒にパチンコへ行こうよ!」

そんな簡単に儲かるのなら、行かなきゃ損と思い、予備校の授業をさぼって、朝の9時半からパチンコ屋の前に並びました。

その後、開店からわずか1時間で、1万2千円稼ぐことができました。別に、違法なことをやった訳ではないのです。

高校時代やっていたビル掃除のバイトは時給800円。

マクドナルドのバイトが420円の時代でしたから、かなり時給の高いバイトを日曜日にやっていました。

しかし、パチンコ屋へ「バイト」に行くと、1時間で1万2千円。

時給800円 vs. 時給12,000円

このあまりの違いに衝撃を受け、次の日から私はパチンコ屋へせっせと「通学」する、そんな日々が始まりました。まだ4月のことです。

パチンコ屋に「通学」すると、日によっては3万も4万も稼げる。昼間はパチンコで稼ぎ、夜は浪人仲間を引き連れて六本木へ繰り出す。バイクを乗り回し、自宅にも帰らない。

そんな浪人生にはあるまじき、放蕩生活が始まりました。

お金が私を狂わせていったのです

 

夏期講習の時期になると、パチンコ屋も対策を打ってきて、私たちの必勝法が通用しなくなってきました。

そこで、仲良しになったパチプロと、まだ対策を打っていないパチンコ屋を東京から埼玉に掛けて巡業するドサ回りを始めるようになりました。この頃から、大きく負けてしまう日が出始めました。

夏の暑さが厳しくなってきた頃、ついにそのパチプロは東京を離れて仲間のいる名古屋へ行くことに。

そして、「一緒に行かないか」と声を掛けられました。

さすがにその頃には、「こんな堕落した生活、いい加減止めなくてはならない」と思い始めていました。これが潮時と判断し、パチンコ生活から足を洗うことにしました。

パチンコで稼げないことにはどうにもならない。そして、仕方なく普通の浪人生へと戻ることにしました。

しかし、一度付いた遊び癖はなかなか抜けないもので、机に向かって勉強しようにも集中力がまったく続かない。

模擬試験を受けに行っても、じっと座っていられず、途中で抜けて帰ってきてしまう。そんな始末でした。

それでも、冬場にはなんとか成績が戻ってきました。

 

そして、いよいよ迎えた受験本番

全部で5校受験しました。

その結果は・・・

すべて不合格。

自分勝手な放蕩生活をしていた私に、天罰が下ったのです。

行く大学がない。これが自分の現実なのです。

 

二浪に突入

この先どうしていくのか?
いろいろな選択肢が頭をよぎりましたが、結局は両親に土下座して、二年目の浪人生活を許してもらうことができました。

 

こんなみじめな思いは二度としない

そう固く決意して、二浪目は心を入れ替えて、生活のすべてを変えることにしました。

東大合格につながらない行動は一切やらない。
そう心に誓いました。その決意を行動で示すために、自分との約束事を決めました。

・予備校には毎日遅刻せず皆勤賞で行く
・予備校の授業には朝一番から夕方最後の授業まですべて出る
・予備校では友達を作らない
・できるだけ誰ともしゃべらない
・今までの遊び仲間には「1年間絶対に連絡しないでくれ」と頼む
・土曜の午後と日曜日にはバイトをして自分の生活費をすべて稼ぐ

 

とにかくすべてを変えたかった。
とにかく孤独でいたかった。
すべての誘惑から距離を置いていたかった。
とにかくストイックであり続けたかったのです。

 

慣れないそんな生活は、最初つらくてしょうがありませんでした。しかし、そのうち段々気にならなくなってきました。

7月に入る頃には、この孤独で変な生活を楽しんでいる自分がいることに、気付くようになりました。

そんな二浪時代を過ごし、予備校には最後まで皆勤賞で行き続けました。授業は一つ残らずすべて出席しました。

その結果、受験した3校すべてに合格することができました。

 

よい習慣がよい結果をもたらす

そんな重要な教訓を、この時身をもって学んだはずでした。

自分としては、壮絶な覚悟を持って二浪時代を過ごしたつもりでした。

そして、運も味方してなんとか滑り込んだ大学でしたが、先ほどお伝えした通り、入学早々「落ちこぼれ」になってしまったのです。

 

大学時代はバブル絶頂期


大学の勉強にはまったくついていけませんでしたが、遊びの方は最高に楽しくやっていました。

 

ヨットをやればモテるかな?

なんとも軽薄な動機で、入学直後にヨットを始めました。動機はまったくもって不純でしたが、

海の上を滑るように走る爽快感
大自然を相手に船を自力で操る醍醐味

そんなヨットの魅力にあっという間にとりつかれました。

 

大学の体育会ヨット部に入部したのではなく、最初はヨットサークルに入り女の子達と楽しく遊んでいました。

その後、もっとヨットが上手くなりたいと思い、一人乗りの小さなヨットを自分で買いました。新品は40万円以上しますが、中古艇を20万円で購入。船の置き場代は月々5,000円。学生でも十分手の届く遊びでした。

ヤマハ製「シーホッパー」
http://www.yamaha-motor.jp/marine/lineup/yacht/dinghy/seahopper/spec/
ちなみに緑色のポロシャツを着てヨットに乗っているのは、学生時代の私です。

その後、大型ヨットのレースチームに入れてもらい、国際レースに出場して世界チャンピオンと戦うレベルまでいくことができました。

ただでさえ落ちこぼれなのに、その上授業をさぼってヨットレースにのめりこんだため、結局1年留年することになりました。

 

大学を出た後、どうするか?

ヨットレースの世界にどんどん没頭した私も、大学卒業後のことを考える時期がやってきました。周囲がリクルートスーツを買い始めた頃、私はまだ自分の進路を決められずにいました。

 

このまま自由なヨットの世界で生きていこうかな~

そうお気楽に思う一方、

世界を相手にビジネスで勝負したい!

という思いも強く持っていました。

 

いろいろ考えたあげく、
好きなヨットと人生を通してつき合って行くには、

ヨットを仕事にするのではなく、
仕事でガッチリ稼いてヨットで遊ぶ

そんな道を選ぶことにしました。

 

就職活動はとんとん拍子で

周りの仲間からは随分遅れて就職活動に参戦。バブル最盛期の就職活動は超売り手市場でした。

2浪1留の分際でありながらも、東大の理系というだけで、どこの企業も大歓迎。沢山の会社にうまいメシをご馳走になりながら、いろんな話を聞かせてもらいました。

そこで分かったことは、誰も私の中身などには興味も関心もないという事実。単に東大の理系というブランドを見ているだけでした。

「なるほど、学歴ってこういうことなんだ~」

と複雑な思いを抱きながら、この特権を生かすのも悪くないと思い、就職活動を進めていきました。

 

私には、中学生の頃から、商社マンになって世界を相手に勝負をしたいという漠然とした夢がありました。

第一志望の商社は2浪1留のため面接すら受けさせてもらえませんでしたが、別の商社からあっけなく内定が出ました。

その後、証券会社からも内定が出ました。

 

商社か証券会社のどちらへ行こうか悩んでいたとき、とても大切なことに気付くことができました。

どっちに行っても
ロクな人間にならないんだろうな~、俺の場合

元々、性格も態度も傲慢な私が、
世の中の上澄みのようなキレイでカッコイイ会社に入ったら
いったいどうなるのだろう?

超一流企業に勤めているというプライドが鼻についてたまらない、
とんでもない勘違いをした大馬鹿野郎になることが、
間違いないように思えてきたのです。

 

社内の出世競争には絶対に負けたくない!

持って生まれた勝ち気の性分が100%表に出て、脇目も振らず馬車馬のように働き、他人を踏みつけてでも前に進む、そんな浅ましい将来の自分の姿が見えてしまったのです。

 

しっかり地に足をつけて生きなきゃダメだ
それなら、まずは工場で働かせてもらおう

自然とそう思えるようになりました。

そして、ほとんどすべての企業が採用活動を終えていた8月に、私は就職活動を再開しました。

沢山のメーカーの人事部に電話して「会ってほしい」と頼み込む。しかし、出会う人に興味も魅力も感じることができない。

そんな繰り返しでした。

「やはり、メーカーは自分には合わないのかな~」と諦めかけていたとき、とんでもない人物と出会うことができました。

春から始めた就職活動を通して出会ったすべての社会人の中で、群を抜いてすごい人でした。学生だった私が言うのも失礼なのですが、「モノが違う」という感じでした。

若くしてこんな生意気でとんでもない人に、好き勝手やらせている会社なら、自分が暴れる舞台として不足はない。

もしこの会社で自分が通用しないのなら、それはすべて自分のせいだ。そう、素直に思えた会社。それがJTでした。

つい数年前までお役所だったということで、世間のJTに対する評価は、当時とても低いものでした。しかし、そんなことはその時の私には関係ありません。

最初は工場で働かせてもらえることを確認した上で、JTへの入社を決めました。

 



順風満帆のサラリーマン時代


入社後は、楽しく激しく働きました

配属された工場での最初の2年間は、毎月の残業時間が150時間。

私の仕事は生産設備のメンテナンスや工事監督だったため、工場が止まっている休日に出勤するのは当たり前。休みは月に1度か2度しかもらえません。

職場の先輩にはいつも愚痴をこぼしてはいましたが、目一杯働ける充実感で満ち足りていました。

 

入社3年目に本社へ異動してからは、仕事のスケールが何倍も大きくなりました。

全国27工場の設備投資計画を策定し運用していく。取り扱う金額は工場勤務時代と比べて桁が一つか二つ増えていきました。

イギリス・マンチェスターに新工場を建設するというプロジェクトには、ゼロから関わることができました。

自分がA3の紙にフリーハンドで書いた新工場の図面が、莫大な投資と3年の月日を経て現実のものとなった経験は、技術者冥利に尽きるものでした。

 

イギリスからの帰国後は、人事部へと異動になり採用を担当することになりました。エンジニアから人事への転身は自分にとって大変刺激的な体験となり、またトントン拍子で出世もしていきました。

 

プライベートの方も絶好調

クルーとして所属しているヨットレースチームは、全国に名をとどろかす強豪チーム。ビッグレースで何度も優勝することができました。

そのチームとは別に、自分が船長となって率いるマッチレースチームを持ち、日本各地へ遠征に行くのも楽しみでした。

一時期は、仲間と一緒に30フィートのレースボートを買って共同オーナーをしていた時代もありました。

4年間つき合った女性と結婚したのも、この頃でした。

 



転機は突然やってきた


人事部で採用の仕事をするようになってから、2年を過ぎたとき、転機は突然やってきました。

それは・・・

左遷

の二文字。

 

サラリーマンであることのリスク

ある日突然、関連会社への出向が命じられました。
管理職試験に合格してから半年も経たないタイミング。
入社7年目、32歳の冬の出来事でした。

 

行き先は、以前所属していたエンジニアリング部門が所管する子会社なので、普通に考えれば極めて一般的な人事だったのかもしれません。

人事異動を決めた人の立場からすると、影山にとって良かれと思って行ったことなのだと思います。

しかし、私はどうしても納得できませんでした。

 

世界を相手にビジネスで勝負したい!

その思いを実現するために、ヨットではなくビジネスの世界に進んだのです。

商社や証券会社などに代表されるキレイなカッコイイ世界ではなく、泥臭く工場の現場から始めて、コツコツ実績と経験を積み上げてきたのです。

機が熟し、エンジニアの世界を卒業し、より経営に近い人事の世界へと入っていったのです。

次のステップでは、事業のより中枢へと入っていくはずだったのです。

実際、人事部の仕事では、誰もが認める圧倒的な成果を出していました。そのことは、部内だけでなく他部門からも認められていたはずです。

しかし、文句を言ってもしょうがありません。

 

私はサラリーマンなのです。

組織の命令は絶対です。

個人の事情は関係ありません。

それがサラリーマンの掟なのです。

 

お世話になった方々へ異動の挨拶に行った際、

「そんな無茶苦茶な出向は断れ」

「俺の所へ今度来てもらおうと思っていたのに、横取りされた」

「白紙撤回するよう、人事部に直談判してやる」

などと言ってくださる先輩達もいました。

とてもありがたい言葉なのですが、気休めにしかなりません。
現実を変えることはできないのです。

当たり前のことなのですが、
私の身分はサラリーマンなのです。

 


辞めたくても辞められなかった時代


新しい職場へ赴任はしたものの、私は会社を辞めることを決めていました。後は、タイミングだけの話です。

 

人事部で新卒採用の仕事をしていた頃、2年で1万人を超える学生と直接会っていました。

出会った学生達に向かって、

働くことがつらいなんて
そんな大人の嘘を信じてはいけない。

仕事ほど面白いゲームはない。
会社はそのゲームの舞台なんだ。

自分に合った舞台を、
自分で選べ! 自由に選べ!

そう、私は力説していました。

そして、JTの舞台で輝きそうな学生には、

力があれば何でもできる
それがJTという会社の本質なんだ

真顔でそう口説いていました。
心の底から信念を持って語っていました。

 

しかし、「左遷」を経験した私にとって、以前自分で語っていた言葉はすべて嘘であることを、自ら証明してしまったのです。

力があれば何でもできるなんて
バカを言うのはおよしなさい。

あなたはこれからサラリーマンになるのです。

組織の命令は絶対です。

個人の事情は関係ありません。

それがサラリーマンの掟なのです。

 

本当は、すぐにでも会社を辞めたかったのです。

しかし、自分が口説いて採用した学生達が入社するのを待たずに、自分が逃げるように辞めることだけは思いとどまらなければならない。そう思いました。

そこで、学生達が入社して、新入社員研修が終わる5月に辞表を提出することに決めました。

 

異動先の仕事そのものは、とても楽しくやらせてもらいました。

元々エンジニアとしての仕事は好きでしたし、なじみの顔も多く、古巣に戻ってきただけのことなのです。

また、5月に辞めることを決めてからは、最後のご奉公と思い精一杯働きました。

 

説得工作の数々が始まった

5月になっても、会社を辞めた後に何をするか、具体的なことはまったく決まっていませんでした。

ただ、一つだけ決めていたことがありました。

もう二度とサラリーマンにはならない

退職の意志を伝えた時点でも、JTは自分が愛して止まない会社でした。サラリーマンという生き方を止めるため、やむなくJTを退職する。それが本心でした。

 

5月に入ったある日、直属の上司に退職する意志を伝えました。

すると、その直後から2日間、いろんな人に呼び出されて、説得工作を受けることになりました。

熱心に説得いただいているのに大変申し訳ないのですが、もう決めたことなのです。決意が変わることはないのです。

左遷が決まった当時は、怒りに似た感情を確かに持ってはいました。しかし、退職の意志を伝えた5月には、もうそんな感情は消えてなくなっていました。

私の中にあるのは、こんなやんちゃな自分に、とんでもない活躍の場を今まで与えてくれたという感謝の思い。それと、期待に応えることのできず申し訳ないという、お詫びの気持ちだけした。

その思いを正直に伝えることが、私にできる唯一のことでした。

 

「俺を助けてくれないか?」

そんな説得工作に対応している時、3つ前の上司から呼び出しを受けました。

なぜ辞めるのか、この先どうするか、そんな質問に答えている内に

「今じゃなくてもいいんだろ、辞めるのは?」

予想外の質問でした。正直に答えれば、YESなのです。なぜなら、次にやることは何も決まっていないのですから。

「俺を助けてくれないか?」

始めは質問の意味が分かりませんでしたが、その元上司は今重要なプロジェクトを抱えていて、それをやり抜ける人がいなくて困っているとのこと。

「俺とAさんの二人以外とは誰とも口をきかなくていいから
この年内、俺のことを助けてくれないか?」

正直、困りました。大変お世話になった上司に「助けてくれ」と言わせてしまっているのです。

この「助けてくれ」が説得の口実であることは分かっていました。半年辞めるのを待てば、影山の気が変わるかも知れない。

もし、半年経っても気が変わらなければ、それはそれでしょうがない。そう思ってのことなのです。

「そうか、残念だけどしょうがないな。これから頑張れよ」と言えばすべては済むのです。

しかし、この元上司は私と会ったこともない自分の上司を口説いて、影山を受け入れる席を用意した上で、「助けてくれないか?」と言っているのです。

ここまで自分のことを考えてくれる人がいるのかと、胸が熱くなりました。

その場はこの申し出を断ることができず、「考えさせてください」と言って席を立つことにしました。

 

サラリーマンに作用する引力

数日間考えた上で、結局、辞めることを年末まで延期することにしました。

そして、今までまったく縁もゆかりもなかった営業部門へ急遽異動することになりました。

私が引き起こしたこのドタバタ劇でご迷惑を掛けた方々に、「辞めるの止めてごめんなさい」と謝罪に回る、大変失礼で間抜けなことをやるはめになりました。

この時の判断は、元上司のオファーが断り切れなかったという形には見えますが、自分に会社を辞める勇気がなかっただけであることは、自分でも認めざるを得ませんでした。

本当にだらしない限りです。
サラリーマンに作用する「引力」から抜け出せないのです。

その後、担当したプロジェクトはどんどん佳境に入っていきます。とても年末に辞められる状況ではないのです。元々仕事は大好きなので、仕事の意味を自分で見つけてしまえば、どんどん深く深く掘っていってしまうのです。

そして、年末に辞めるのも止めてしまいました。
もちろん、独立起業の目処は立っていません。

結局、最初に辞めるのを止めてから2年を過ぎた時点で、大きなプロジェクトの区切りがついたため、JTを退職させてもらいました。

 

入社10年目の秋、35歳の時のこと。
その時でもまだ、独立起業の目処は立っていませんでした。

 


独立後は失敗の連続


独立起業の失敗事例

勇気を振り絞り会社を辞めて、サラリーマンを卒業してはみたものの、何をすればよいのかまったく分からない有り様でした。

 

JTへサービス提供

JT時代に自分が運用管理していたデータベースをバージョンアップさせる作業を、独立後も引き続きやるよう、退職直前に依頼を受けました。

会社に行って作業をすると時給1万円、自宅で作業をすると時給5千円と単価を決めて、自分が辞めた会社をお客さんにする仕事が始まりました。

わずか半年のことでしたが、自分が元いた会社に請求書を発行する感覚は、何かとても不思議なものでした。

 

化粧品販売業 → 失敗

会社を辞める前から、サイドビジネスは始めていました。
化粧品とサプリメントの販売がその仕事。

儲かるときは儲かるのですが、まったくもって安定しないのです。軌道に乗らず、経費だけがかさむ状況でした。

 

ビジネスコーチ → 失敗

サラリーマン時代にコーチングの資格を取っていたので、ビジネスコーチになるつもりでいました。

しかし、これもまったくうまくいきません。

クライアントから約束した時間に掛かってくる電話を、落ち着いて待つことができないのです。

イライラしてどうしようもないのですから、そんなコーチからコーチングを受けたい人なんているはずない。

そう思い、早々にこれは止めました。

 

9.11

会社を辞めておよそ1年経った頃、アメリカ同時多発テロ事件が置きました。

何をやったらいいのか分からず、自宅で昼間からワインを飲んだくれていたとき、テレビ画面からあの衝撃的な映像が自分の目に飛び込んで来ました。

その後は、テレビの前で一日中この事件を見てボーッと過ごしたことを記憶しています。

信じられない映像を目の当たりにしながら、
「この先、アメリカはどうなるんだろう?」

でも、それよりも
「この先、自分はどうなるんだろう?」

「それを考えなくちゃダメなんだよな、ホントは」
と、ぼんやり力なく考えていました。

丁度その頃、退職金を含めた貯金が底をつき始め、家賃の支払が遅れたりして、経済的にかなりまずい状況に追い詰められていきました。

 

父の事故死

9.11から2ヶ月ほどしたある日、父が亡くなりました。会社の階段で転んで頭を打ち、救急車で運ばれたものの、そのまま息を引き取りました。

父は長年肝臓の病気を患っており、人工透析を受けながらも、倒産し掛かっている小さな印刷会社を経営していました。

先は長くないことを家族は分かっていましたが、まさか事故で亡くなるとは思いもしませんでした。

赤字を垂れ流していた会社なので、葬儀を終えた後、会社を畳むつもりでいました。

しかし、残された社員2名の事情により、思いもかけないことでしたが、結局私がその赤字会社を引き継ぐことになりました。

 

印刷会社経営 → 廃業

残された社員は67歳と54歳。そこに30代の私が加わることになりました。印刷業界の経験はゼロなので、私の友人達はみな会社を継ぐことに反対しました。

私も最初はかなり躊躇しましたが、

「いい加減目を覚ませ。ふらふらせずに真面目に俺の会社で働け」

と父が自分の死をもって伝えてくれたのだと解釈して、結局継ぐことにしたのです。

パソコンが1台もない前時代の印刷会社でした。なんとか父の起こした事業を再生しようと奮闘しましたが、まったくうまく行きません。

経費を削って、社長である自分の給料も下げ、それでも足りずに社員の給料も下げさせてもらいましたが、売上が足りない。

幸いにも大きな借金はなかったので、最後は廃業を決断することになりました。

 

デザイン会社での修行 → ???

ひょんな縁で出会った西麻布のデザイン会社の社長に拾われ、広告や印刷の仕事を基本から教えてもらえることになりました。

午前中は自分の印刷会社で仕事を片付け、午後はデザイン会社に行ってその会社の仕事をする生活が始まりました。

そんな生活をし始めてわずか3週間で、自分の会社の社員が一人入院。そのまま何ヶ月も退院できない日々が続きました。

私が午後、自分の会社を不在にしては仕事が回りません。

随分悩んだ上で、残り一人の社員に退職してもらい、事務所を引き払い、印刷業を廃業して一人会社になりました。

この時が、私の「マイクロ法人」としての出発点。
なんとも暗いスタートでした。

その後はデザイン会社でフルタイムの仕事をさせてもらいました。プロモーションの企画を作ったり、コピーを書いたりと、今までやったことのない仕事にチャレンジさせてもらうことができました。

この会社に毎月請求書を出すことで、独立後の生活は随分安定するようになっていきました。

 

ついにその時が・・・ 「離婚」

収入面は少し安定してきたものの、自分の事業はまったく立ち上がりません。あちらこちらの起業セミナー顔を出しては、「なにか違うんだよな~」と評論家のごとく振る舞う、セミナーマニアになり下がっていました。

考えていることとやっていることがバラバラ。
やりたいこととできることがまったく噛み合っていない。

こんな状態じゃうまくいくはずないという妙な確信だけはありました。

このように何をやっても上手くいかないダメな状態が、会社を退職した2000年以降、何年も続きました。

当時のあまりにふがいない状況から抜け出せない私は、ついに妻から三行半を突きつけられ離婚をすることに。

付き合い始めてから15年、結婚してから11年間の関係があっさりと終わりました。

 

すべてをゼロにリセットしよう → 大失敗

離婚をした2005年には、それまでお世話になっていたデザイン会社で働くことも止め、仕事をなにもしないで一人で人生を見つめ直す時間を3ヶ月とってみました。

JTを退職して以来、その時々の流れに何となく乗って仕事をしてきただけなので、一度ちゃんと立ち止まって考える必要があると思ったのです。

自宅に一人で籠もって修行する。そんなイメージでした。

しかし、止まっていても何も思いつきませんでした。
何も変わらない。何も変えられない。

自分の人生を振り返っているつもりなのですが、思考が空回りするだけで何の進展も生まれません。

できるだけ人に会わずに一人で考え続けたのですが、どうにもこうにも上手くいきません。

単なるひきこもりをしていた、なんの意味もない3ヶ月でした。

 

中国マリンレジャー事業 → 失敗

ひきこもり生活をしていた頃、ヨットでお世話になっていた先輩から連絡を受けました。

お前やることないのなら、中国でヨットでも売ったらどうだ?

そんな思いがけないことを言われました。

その先輩は、最近中国上海に毎月出張しているようで、勢いよく伸び続ける中国のパワーを肌で感じているようです。

中国の今は、まさにバブル状態。

日本のバブル期と同じように、ヨットが右から左へと売れるはずだと踏んでいるのです。

それでは一度現地を見てみましょうということで、上海に行くことにしました。バブル崩壊後の失われた10年が、20年になるかと言われている日本とは、まったく違った熱気を上海の地で感じることができました。

「よし、やれるところまでやってみよう」
と思い、中国ヨットビジネスを手掛けることにしました。

日本のマリンレジャー事業のコンサルタントであると名乗り、中国政府が主催するイベントなどで講演をしながら、人脈を作っていきました。

視察に訪れた場所は、上海、寧波、福建、成都、青島、杭州、南京など。チャンスがあれば自費で現地に足を運び、そこで地元の事業家や役人たちと商談をする。また、自分たちで展示会に出展をしたこともありました。

ビザが2週間しかないので、毎月一度中国に出張して、日本と中国で半分ずつ暮らす生活を1年続けました。

しかし結局事業は立ち上がらず、経費だけ使って売上ゼロという結果に終わりました。

 

 

2つの「マイクロ法人」が出会う


サラリーマンを辞めてから手掛けたすべての商売

・化粧品販売業
・ビジネスコーチ
・印刷会社経営
・デザイン会社での修行
・中国マリンレジャー事業

これらはまったくうまく行きませんでした。

ところが、2008年頃から、自分を取り巻く状況が変わり始めて来ました。再婚したことがよかったのかもしれません。

しかし、それ以上確実に言えるのは、自分のビジネスに対する取り組み方が明らかに変わり始めたことでした。

それを説明するために、少し前に話を戻してみたいと思います。

 

東京ビッグサイトでのナンパ

ひきこもり状態になっていたそんな私に、オファーを投げかけてくれた人物が、ダーキーさんでした。

彼はアメリカ・シアトルの高校を卒業後、1992年に上智大学に留学。憧れていた日本に来る夢を果たしました。それ以来19年間、ずっと日本で暮らしています。

大学在学中から、日本人ビジネスマン向けにビジネス英語を教えるバイトを始め、大学卒業後にはそのまま教育研修会社に就職しました。その後2003 年に企業向け教育研修会社IDEA DEVELOPMENT 株式会社(以下、アイディア社)を創業した、そんな人物です。

年齢は私より7 歳年下。

そんな彼との初めての出会いは、2004 年夏の東京ビックサイト。

そこで行われた展示会に、私が修行させていただいていたデザイン会社が出展していて、そこで一風変わったプレゼンテーションを私が実演していました。

その前をダーキーさんが偶然通り掛かったのです。

「面白い。いいね。詳しく教えて!」

彼のこんな一言から、すべてが始まった記憶があります。

 

後日会って詳しく話をしてみると、流暢に日本語を操りながらとても面白い発想をする人物でした。

だから何とか一緒に仕事がしたいとお互い思ってはいましたが、具体的な案件をつくれずに困っていました。

 

風変わりなプレゼンテーション研修

そんな時、偶然にもデザイン会社に研修の依頼が飛び込んで来ました。

デザイン会社風のプレゼンテーション研修を
新入社員に対して実施して欲しい

なんとも変わったリクエストです。

その案件を担当することになった私は、研修の達人であるダーキーさんをブレーンとして招き、私と二人で研修を設計して講師を一緒にやることにしました。

 

この案件そのものの結果は、決して成功と呼べるものではありませんでした。

しかし、どんなきつい状況に追い込まれても、ダーキーさんも私も決して逃げることなく一緒に立ち向かっていきました。

このことによって、不思議な絆が二人の間に生まれた気がします。私たちにとって、この絆こそが最大の財産になろうとしていたのです。

 

時間が許す範囲で、少し手伝ってよ

話を元に戻すと、離婚した後にひきこもり生活をしていた頃、

「時間の許す範囲で、少し手伝ってよ」

とダーキーさんから声を掛けられました。

 

そこから、私は彼の仕事に緩やかながらも関わり始めることになりました。

当時は、ダーキーさんは一人会社の社長。
そう、私と同じ「マイクロ法人」でした。

当時、ダーキーさんのワークスタイルは・・・

・自分で営業して仕事を取ってきて
・自分で研修プログラムを開発し
・自分で研修テキストを印刷し研修会場に持参して
・自分で直接教える

という何でも一人でこなしていくものでした。

 

ある時、ダーキーさんが受注した仕事は、受講者が多いため、
同じ日に、同じ場所で研修講師が2 人必要な特殊な案件でした。

「自分以外のもう一人の講師はどうしようか?」

そう彼が悩んでいたときに、白羽の矢が立ったのが私でした。

そして、ダーキーさんが開発した研修プログラムを、私が研修講師として教えられるようになるために、急造の準備が始まりました。

 

ダーキーさんが設計した研修プログラムは・・・

教える準備を進める中ですぐに気づいたのが、とても優れた設計の研修プログラムであるということでした。

そして、実際に本番で教えてみたところ、受講者の反応は抜群で、研修終了時のアンケート評価はほぼ満点でした。

 

「これはすごい。」

私は興奮しました。

JT時代に数々の研修を受講していた経験や、自分で研修プログラムを企画した経験に照らし合わせても、ダーキーさんの研修は、日本のトップクラスに当たることが、すぐに分かりました。

 

その時、私は興奮しながらこんな風にダーキーさんに向かって話した記憶があります。

こんなにいい研修なんだから、
もっとちゃんと営業して、売ってあげないとダメだよ。
みんな本当に困っているんだから。
もっと多くの人を助けてあげなきゃダメだよ。

そしたら、ダーキーさんはこう答えてきました。

「だから、手伝って欲しいんだよ。分かる?」

 

引っ掛かり

そんな感じで、ダーキー&影山の二人三脚が始まりました。
二つの「マイクロ法人」がタッグを組んだのです。

私たちのビジネスはゆっくりとしたスピードではありましたが、着実に成長を始めていきました。

そして、2008 年には数多くのお客様企業から高い信頼が得られていることを強く実感できるようにまでなりました。

このように、かなりのことがうまく行くようになったのですが、私には一つ引っ掛かることがありました。

今の仕事はダーキーさんのビジネスで、
自分のビジネスではない。

このままダーキーさんの手伝いを続けていいものか?

それとも、そろそろダーキーさんとの付き合いから卒業して、
自分で新たに事業を立ち上げるべきでは?

私の心は揺れていました。2008年後半から2009 年の前半に掛けて、出口が見つからない悶々とした状態が続きました。

 


すべてが好転し始める

 

ブレインダンプセミナー

このモヤモヤした状態に決着をつけたい。

よし、それなら新しくビジネスプランを作って、
自分で商売を立ち上げよう。

そう思い立って、「ブレインダンプ」という名前のセミナーに参加することを決めました。

2009 年5 月つくばにて、2 泊3 日の合宿形式でそのセミナーは行われました。

主催は、平先生の会社であるインプロビック。
セミナー講師は、森下誉樹さんと高野五輪夫さん。

このセミナーの中で、私はとても衝撃的な体験を数多くすることになりました。

ブレインダンプセミナーで最も衝撃を受けた2つの言葉

成功は、本当の目標を持てるかどうかに掛かっている
(目標達成方法ではなく目標設定方法が勝負を分ける)

成功者に成功した理由を質問すると、
必ず子供の頃の話を始める

そして、この3日間に渡るセミナーの中で、私の考えは意外にも180度変わることになりました。

セミナー参加「直前」

この3 日間でしっかりビジネスプランをつくって、
セミナーから戻ったら、
ダーキーさんに今までの御礼と別れを告げよう。


セミナー参加「直後」

ダーキーさんと一緒に企業研修の仕事をやっていることは、
自分にとって必然であることに気がついた。

ダーキーさんと一緒に、必ず大きな成果を出す。

 

このブレインダンプセミナーのお陰で、私の心を覆うモヤモヤした気持ちは完全に消え去りました。

そして、このセミナー参加のわずか2ヶ月後には、自分の収入が5割増えることになりました。まさに驚くべき変化が実際に起きたのです。

 

師はある日突然現れた

ブレインダンプセミナーに参加したことで、自分にとって意味のある生きた「本当の目標」を持つことができました。

残された課題は「マインドセット」と「ビジネスプラン」でした。

 

そしてその時、「師」は突然現れました。

「師」とは、平秀信先生のことです。

 

2008年12 月に平先生は「孤独の旅」へと出発し、世界中を放浪していたことは知っていました。

その先生が「孤独の旅」を終えられ、ブログを通してメッセージを発信してくれるようになったのです。

それはブレインダンプセミナーに参加したのと同じ、2009年5月のことでした。

平先生のブログには、「孤独の旅」の過酷さや、子供の頃の悲壮な体験が、赤裸々に綴られていました。

そのブログを読み進めているうちに、

この先生に商売を教えてもらいたい
人生を教えてもらいたい

と心の底から強く思えるようになりました。

 

When a student is ready,
the master will appear.
(準備ができた時に、師は現れる)

これは、以前平先生がCD教材で教えてくださったアメリカのことわざです。

サラリーマンを辞めて以来初めて「本当の目標」を持つことができ、初めて「準備」の整った状態になった私の身に、このことわざと同じことが起こったのです。

 

こたつで、みかんなんかを食べてる場合じゃない

それから数ヶ月が経った9月に、15名限定の少人数セミナーに参加しました。そこで、「孤独の旅」を終えて戻られた平先生に初めてお会いすることができました。

なにか憑きものが落ちたような、少年のようなとても凛々しくすっきりした先生の顔がとても印象的でした。

「自分も50 歳の時に、こんな顔でいたい!」

その時、そう強く思いました。

 

そのセミナーの中で、先生が最も強く私たちに伝えてくださったメッセージは・・・

「孤独の旅」に行きなさい。

その旅の中で、自分のコアを明確にしてください。

自分のコアが明確になるかどうかで、
この先の成功のスピードが100倍変わります。

私と同じように何ヶ月も旅に出るのは、
みなさんには難しいと思います。

だから、今度の正月休みに、
1 週間だけでもいいから旅に出て下さい。

正月にこたつでみかんなんか
食べてる場合じゃないのです。

だから、今度の正月休みに、
1 週間だけでもいいから旅に出て下さい。

正月にこたつでみかんなんか
食べてる場合じゃないのです。

 

この話を聞いた瞬間、自分も「孤独の旅」に出たいと思いました。

旅に出たいというよりも、先生の教えを鵜呑みにして忠実に実践したかっただけなのかもしれません。

ある意味、命を賭けて出た「孤独の旅」から生還した先生が、本気で伝えてくださるこの教えを、四の五の言わず直ぐに実行に移せる自分になりたかったのです。

 

「プチ孤独の旅」に出る

それから時は流れ、2009年12月24日
私の「プチ孤独の旅」が始まりました。

妻と一歳になったばかりの息子を置いて、クリスマスイブに旅立ちました。妻と約束した旅の期間は6日間。

その6日間でなにが得られるのか、出発時点ではまったく分かってはいませんでしたが、師の教えを素直に実践できる自分になりたかったのです。

できるだけ平先生の「孤独の旅」と同じルートで進むことを意識しました。

・新宿から夜行バスで14時間かけて博多へ

・博多からは高速艇で釜山へ

・そこから北上しソウル経由で仁川へ

・仁川からは船で大連まで渡る

これが大まかなプランでした。

 

深夜バスが新宿を出発した後、「プチ孤独の旅」に自分が出たことを先生に報告しようと思い、メールを打ちました。

これは、私が平先生に送った人生で初めてのメールでした。

平先生のセミナーに数回行っただけの私のことを、平先生は覚えているはずはありません。

しかし、とても意外なことが起きました。

深夜バスが博多に着いた後、博多港へ向かい、韓国・釜山に渡るために出国審査を終えた待合室でパソコンを広げたら、なんと平先生からメールが届いていることに気づいたのです。

平です。
ご苦労様です。
 
博多についたらメールをください。
 
毎日、
 
何を行ったか?
何を思ったか?
 
それをメールでください。
次の行き先を指示します。
 
出来るだけ孤独になってください。
孤独こそが人を成長させます。

 

毎日毎日、孤独の中でひたすら自分の「過去」のことだけを考え、「未来」のことは一切考えない。

考えたことが消えてなくならないよう、猛烈なスピードでメモを取り、夜中にパソコンを使ってまとめる。

そのデータを毎日平先生にメールで送り続ける。
そんな6日間になりました。

 

実際の旅では、仁川までは辿りつくことができたのですが、船に乗って中国に向かうと、妻と約束した日に帰国できないことが分かりました。結局、中国へ渡ることは断念して、最後はソウルから空路で日本へ戻ってきました。

 

この6日間の「プチ孤独の旅」を通して、自分のコアは「学習」であることが見えてきました。

学ぶことが得意
教えることが好き

これが自分の本質であることに気付くことができたのです。

ここ30年以上に渡り一度も思い返すことのなかった、小学校5年生、10歳の頃の体験を思い出したことが、自分のコアに気付く引金となったのです。

 

失敗するべくして失敗していた

「プチ孤独の旅」を通して、失敗した数々のビジネスを思い返しました。それらはすべて、自分のコアとはまったく関係ない、または激しくずれているものばかりでした。

当時、私の自己認識はかなりずれていたので、
こんな私から化粧品を買いたい女性がいる訳がない
という、これほどまでに当たり前のことすら気付かず、ビジネスをやっていたのです。

まさに、失敗するべくして、失敗していたのです。 r

一方、ダーキーさんとやっている企業研修のビジネスは、自分のコアである「学習」とドンピシャで一致しています。

自分の本分は、まさに今のこのビジネスであることを改めて確信しました。

 

スティーブ・ジョブスの教え

アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブスが、2005年6月にスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチがあります。

その15分間のスピーチの中で、ジョブスは自身の体験を踏まえたとても大切な教訓を、スタンフォードの卒業生達に伝えています。ここでその一部を抜粋して紹介してみます。



How to live before you die
死ぬ前にどう生きるか

Steve Jobs
スティーブ・ジョブス


もし私がドロップ・アウトしていなかったら、あのカリグラフィーのクラスにはドロップ・イン(寄り道)していなかった。

そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントは搭載されていなかった。

もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできなかった。

しかし、10年後になって過去を振り返ってみると、非常に明確に分かる。

もう一度言おう。

人は未来を見通して点と点とを繋げて見ることはできない。できるのは過去を振り返って繋げることだけだ。

だからこそ点と点とは将来それらが何らかのかたちで繋がっていくと信じなくてはならない。

自分の直感、運命、人生、カルマ(宿命)・・・何でもいい・・・そういったものを信じなくてはならない。

点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ず1つに繋がっていく、そう信じることで人は確信を持って己の心の赴くまま(follow your heart)生きていくことができる。

たとえそれが人と違う道を行くことになってもだ。

そしてこう信じることが人生に決定的な違いをもたらせるようになる。

「マネー大激震 逆境下の資産運用術」
岩崎日出俊(著)より引用

 

数々のビジネスの失敗を繰り返していた時代、私はいつも未来のことばかり考えていました。

過去の失敗を今さら振り返ったところで何の意味もない。
未来に向かって前向きに進んでいこう。

過去をまったく振り返ろうとしない、過去の失敗から学ぼうともしない。そんな当時の私の発想こそが、失敗の根本原因だったことに気付かされます。

 

平先生の教え:
「孤独の旅」を通して、自分の過去を徹底的に振り返り、
自分のコアを見つけろ

スティーブ・ジョブスの教え:
人は未来を見通して点と点とを繋げて見ることはできない。できるのは過去を振り返って繋げることだけだ。

 

この二つの教えの本質は、今の私にはまったく同じであるように思えます。

意識していたのか、無意識なのかに関わらず、自分が歩んできた道には必ずそれなりの意味や意図があるはずなのです。

 

点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで、必ず1つに繋がっていく、そう信じることで人は確信を持って己の心の赴くまま(follow your heart)生きていくことができる。

なんら関係があるとは思えない、自分の身に起きた過去の一つ一つの出来事(点と点)にも、丹念に振り返ってみると何らかのつながりが見えてくるのです。

私は自分の「プチ孤独の旅」で、過去を徹底的に振り返り、過去の点と点を懸命につなげる作業をしていたことになります。

この点と点をつなぎ合わせる作業こそが、自分らしく自由に生きるための戦略を生み出してくれるのでしょう。

 

※スティーブ・ジョブスのスピーチは本当に素晴らしいので是非一度ご覧ください。

Youtube映像(日本語字幕付き)

第1/2部:
www.youtube.com/user/dinichthys39#p/u/12/DE8HrWmnLwA

第3部:
www.youtube.com/watch?v=54pPcsDEc6M&NR=1

また、以下の本の日本語訳もとても素晴らしいと思います。

「マネー大激震 逆境下の資産運用術」 岩崎日出俊(著)

 

運がよくなる秘訣

自分のコアに忠実に生きていると、人生が本当に楽しくなります。

「プチ孤独の旅」から戻った私は、失敗を繰り返していたあの時期がまるで嘘のように、すべてが上手く行き始めたのです。

また、時々なにか問題が起きたとしても、問題を解決して克服していくプロセスを存分に楽しむことができるようになりました。

簡単に言ってしまうと、

自分のコアに忠実に生きると
運が良くなる

そんなことを今、実感しています。


「マイクロ法人」の実態
【会社概要編】

ここまでのところで、私がサラリーマンから「マイクロ法人」になるまで、そして「マイクロ法人」になってから現在に至るまでの軌跡をお伝えしてきました。

ここからは、「マイクロ法人」として活動している現在の模様をご紹介していきたいと思います。

 

事業目的

プロジェクト開発

基本的にはこのことに自分のエネルギーを集中させたいと考えています。

プロジェクトを立ち上げて、無事立ち上がった後は他のメンバー(「マイクロ法人」など)に運営を任せていくスタイルを目指しています。

会社の登記簿謄本に記載されている「目的」は以下の通りになっています。

1. プロジェクト開発運営事業 
2. 経営コンサルティング事業 
3. 教育事業         
4. 広告事業         
5 .印刷事業         
6. レジャー事業       
7. 不動産事業        
8. 上記に関わる一切の付帯事業

ダーキーさんと出会った当初は、お互い「マイクロ法人」でした。しかし、その後ダーキーさんの会社の方で社員を雇用していますの、私の方は今でも「マイクロ法人」です。

今後開発するプロジェクトの内容によっては、スタッフを雇う必要が出ることも予測されます。

しかし、その場合でも私の会社は「マイクロ法人」のままにして、新会社を設立した上でそちらで社員を雇用しようと考えています。

 

社歴、役員

亡くなった父が創業した、パイオニア美術印刷株式会社を引き継いで、その後パイオニアプロジェクト株式会社に会社名を変更しました。

そのため、法人としての歴史は長く、今期が第45期になります。

この会社は私が死ぬまで「マイクロ法人」(一人会社)のままにして、個人と法人の二つの人格を持って世の中と関わっていきます。

そして、私が死んだら、今はまだ2歳の息子にこの「マイクロ法人」を渡して、息子の「マイクロ法人」として家族三世代目に入ってもらいたいと考えています。

父の会社を引き継いだときは、私の他に社員が2名、名義上の役員が3名いました。

その後、印刷会社を廃業した時点で社員には退職してもらい、また会社法の改正により役員もすべて辞めてもらいました。

現在は、社員も役員も私一人の「マイクロ法人」として活動しています。

 

顧客

顧客は、ダーキーさんの会社であるIDEA DEVELOPMENT株式会社(アイディア社)がメインで、その他はごくわずかあるだけです。

以前は顧客を10社以上持っていた時代もありましたが、アイディア社の仕事に集中したいため、顧客をどんどん減らしていくという作戦をとっていきました。

顧客数を減らすことは経営(収入)を不安定にするため、一般論では良くないこととされています。

しかし、自分の1日24時間という限られた時間をどのように配分するかが、「マイクロ法人」としての成否を決めるポイントです。

私は一点集中のプロジェクト型のワークスタイルを志向しました。

顧客が少ないリスクに関しては、次のように考えています。私は、アイディア社のマーケティングと営業も担当しています。

日々、この集客と営業のスキルを磨き続けていることになります。

もし、アイディア社以外の顧客を一気に増やすこと必要になった場合は、磨き上げてきた集客&営業スキルを最大限発揮すればそれで大丈夫と判断し、思い悩まないようにしています。

しかし、どのような場合においても、「マイクロ法人」にとって自力で顧客を獲得できるスキルは、極めて重要であることは間違いありません。

 


アイディア社の紹介
IDEA DEVELOPMENT株式会社

企業向け人材育成サービスを提供する会社
(研修会社)

サービス分野を
グローバル、イノベーション、コミュニケーション
の3つに絞り込み、高い専門性を持って、
人材育成を通じたお客様の課題解決に取り組む会社

主な教育研修実施先
IHI、旭化成、アステラス製薬、NTTデータ、NTTドコモ、オリンパス、キヤノンシステムアンドサポート、KDDI、コクヨ、サッポロビール、資生堂、住友商事、西友、全日本空輸、第一三共、帝人、電通、凸版印刷、ナイキジャパン、日産自動車、日本オラクル、日本コカ・コーラ、日本マクドナルド、野村證券、パイオニア、パソナ、日立キャピタル、日立情報システムズ、日立製作所、日立物流、ブリヂストン、みずほ証券、三井物産、横河電機、楽天、リコー、ほか



「マイクロ法人」が大手企業を相手にできる理由

私たちの取引先実績(顧客リスト)を見て、
「大手企業ばかりズラリと並んでますね」
「客筋がいいですね」
と言われることがあります。

取引の大きさは様々ですが、確かに大手企業が私たちのお客様の中心です。

自分たちにとっては当たり前のことなのですが、傍から見るととても不思議に思う人達もいるようです。

「なぜ、そんなに小さな無名の会社が大手と取引しているのか?」

そこで、自分達で考えるその理由をご紹介してみたいと思います。

 


「マイクロ法人」から出発した超零細企業が
大手企業と取引できる3つの理由

1. 大手企業はアンテナが高い

2. 大手企業はグルメ    

3. 大手企業はチャレンジャー


それでは、順番にその理由をお伝えしていきます。

1.大手企業はアンテナが高い

私たちは押し売り型の営業は一切していません。
飛び込み営業はしません。コールドコールもしません。

やっていることはとてもシンプル。

1. 無料セミナーを企画して案内する       
2. 無料セミナーに参加してもらう        
3. アポを取り、後日訪問し、課題をヒアリングする
4. 別の日に、提案書をまとめて訪問する     
5. 受注する                  

 

毎回これです。
細かい工夫はその都度でいろいろやっていますが、基本はいつもワンパターンです。

当然のことですが、アポが取れないこともあります。
アポを取ってヒアリングをしても、私たちではお役に立てないこともあります。

また、真剣に考えて提案をしてみても、受注できないことも多々あります。

しかし、受注できるときは、いつもこの流れを踏んでいるということです。

 

大企業の人事担当者は、とても高くアンテナを張っています。
「なにかよい情報はないか?」
と、常に気を配っています。

そのため、適切にセミナー情報を発信すれば、それを相手が勝手にキャッチしてくれるのです。

また、人材育成を業務として担当する人の数が、中小企業よりも多いので、アンテナが何本も立っていることになります。

(中小企業では、人材育成を専門に担当している人はほぼゼロで、通常担当者は他の業務も兼務しています)

感度のよい高いアンテナが数多く立っているのが大手企業なのです。そのため、私たちが開催する無料セミナーの参加者は、大企業がかなりの割合を占めることになります。

 

2.大手企業はグルメ

中小企業に比べ、大手企業には人材育成に掛ける予算が沢山あります。毎年多額の予算を人材育成に使ってきたのです。

そのため、数多くの研修会社との取引を経験してきたことになります。その中には、成功した事例もあれば、失敗した事例もあるはずです。

研修などの人材育成策は、手に取れる商品とは異なり、その善し悪しを判断することがそう簡単ではありません。

しかし、今までに数多くの研修会社と付き合ってきた経験があるので、研修会社が提供するサービスの微妙な差を見極めることができるのです。

「リーダーシップ研修であれば、A社とは相性が悪いが、B社とはフィットする」とか、

また逆に「新入社員研修では、A社とは合うが、B社とはどうもうまく行かない」 という感じで、その違いにとても敏感なのです。

大手企業は今までおいしいものを沢山食べてきて、微妙な味の違いが分かる「グルメ」なのです。

私たちが、お客様のニーズやリクエストに合わせてきめ細かくカスタマイズして提供する研修サービスの微妙な「塩加減」を理解した上で、発注先を決めてくれるのです。

一方、中小企業の場合は、研修実施の経験が比較的少ないため、

「ブランド企業の有名な研修を導入すれば安心だろう」
「内容の違いはわからないので、とりあえず安い方にしておこう」

といった判断になる場合が多々あります。

手間ひま掛けて手作りするおいしい料理なら、微妙な味の違いを分かってくれる「グルメ」な大企業の方が、その味を正確に評価してくれるのです。

 

3.大手企業はチャレンジャー

仮に、去年までブランド企業が提供する人気研修を実施してきて、よい成果が得られている案件があるとします。

その場合、大企業は「今年はもっと改善して、さらに良くしたい」と貪欲に考えるものなのです。

それに比べ、中小企業では 、一つ一つの細かい仕事にそれほどエネルギーを掛ける人もお金も余裕がないため「去年よかったから、今年ももちろん同じで」という発想になるのです。

そう言う意味では、大企業は「チャレンジャー」なのです。

もっと良くするためには、普通のやり方ではなかなかそれを実現できません。

すると無名の研修会社でも、自分で詳しく確認して、本当にそれが良いと思えば、新規に取引が始まる可能性は十分あるのです。

 

ここまで、「マイクロ法人」から出発した超零細企業が大手企業と取引できる理由として、
大手企業は「アンテナが高い」「グルメ」「チャレンジャー」の3つの切り口をお伝えしてきました。

このことは、少し変わった例えにはなりますが、ラーメンに対するこだわりをイメージしてみたら、分かりやすいかもしれません。

大手企業 = ラーメン通
中小企業 = さほどこだわりがない人(私はこちら)

1.ラーメン通は「アンテナが高い」
おいしいラーメン屋がどこかにないかいつも気にしていて、ちょっとした仲間内の噂にもとても敏感。

(私はラーメンを食べようと思った時しか、ラーメン屋のことは考えない)

2.ラーメン通は「グルメ」
微妙な味の違いを捉えて、ものすごく詳しいコメントができる。

例)シンプルな具に透明感のあるスープと、これぞまさしく「淡麗あっさり系ラーメン」と思いきや、スープを飲んでみてビックリ。

ベースは鶏ガラ醤油にサポート的役割として魚介が使用されているが、他店とは次元の異なるコクの強さ。味の深さではなくコクの強さが際立っている。いい仕事してます。

(私なら、「さっぱりしているけど、おいしいね」以上のコメントは言えない)

3.ラーメン通は「チャレンジャー」
どこかに新しい店ができたと聞けば、足を伸ばして自分で食べてみる。当たりもあれば、外れもあるのだが、もっとおいしいラーメンを求めてチャレンジをし続ける。

(私なら、「なじみのあのうまい店に行こう」でおしまい)

 

このように考えてみると、「マイクロ法人」が大手企業を相手に仕事をすることは、自然な流れだとも言えるのです。

もし、法人相手のビジネスをするのであれば、大手企業をターゲットにすることも検討する価値は十分あると思います。

「マイクロ法人」が低価格戦略を取ることは、多くの場合自殺行為です。

安く大量に販売するのは大企業の専売特許。大量に販売することが難しい「マイクロ法人」の場合は、少量高価格戦略に出ることが基本です。

大手企業をお客さまとした方が、中小企業をお客さまに比べ高価格で受注できる場合もあるはずです。

 

山椒はぴりりと小粒がいい

「ぴりり」とスパイスが効いていれば、大企業相手に高価格戦略をとることも可能になるはずです。

(ちなみに、アイディア社の価格は、研修業界全体で見ると少し高め。しかし、大企業をお客さまとする研修会社の中では、真ん中辺りの標準的な価格設定です)

 

 

経理業務

決算処理を税理士に頼む以外は、すべて自分で処理しています。

毎月月初にまとめて経理処理を行っています。昨年度までは税理士からタダでもらった「JDL出納帳」という会計ソフトを長年使っていました。

しかし、このソフトを税理士がサポートするのを避けたいということで、今年の4月から「弥生会計11」を使い始めました。

(Amazonにて3万円程度で購入)

溜まった領収書をA4の白紙にペタペタ貼ってEXCELでまとめる。

クレジットカードの利用記録をダウンロードして、これもEXCELで整理。届いた請求書を弥生会計に入力。請求書をEXCELで作って郵送する。

やっていることはこれだけ。忙しいときは2、3ヶ月分溜めて、一気に処理することもあります。

銀行には月に2回行って、15日には取引先へ支払。月末には自分の給料を引き出す。

これらはすべてATMを操作するだけなので、なにもわずらわしいことはありません。

税金の支払いだけは窓口に行く必要がありますが、これも年に3回だけ。(源泉徴収税2回、決算後1回)

自分の会社の口座がある銀行の支店に行く必要はないため、だいたい空いている小さな郵便局に行って、税金を納めています。

決算処理だけは自分でやらずに税理士に頼んでいます。記帳の仕方が分からない数件だけ、期末に電話かメールで質問する。その後、会計データをダウンロードして、税理士にメールで送るだけ。

そして、しばらくすると税理士から電話が掛かってきます。「一応、年に一度はお会いしましょう」ということで、土日のどこかで自宅まで来てもらいます。

簡単な決算説明を受けた後、税金の支払伝票を受け取る。これで大体30分。税務署への申告書類は、税理士が電子申告してくれるので、自分はノータッチ。

後は、その伝票を郵便局に持って行き、現金で税金を支払えば、すべての決算処理は終了です。

それから、会社とは直接関係ないのですが、個人の確定申告は毎年行っています。

寄付金の控除は毎年発生していますし、医療費の控除やマイホーム減税についてもたまに発生するためです。

確定申告も慣れれば簡単。税務署のホームページにアクセスして、必要な情報を入力してプリントアウトするだけで、確定申告書が完成。自転車で10分走って税務署に申告書を届けて、ハンコをもらえばすべて完了。

そして、1~2ヶ月後に、税金の還付金が自分の銀行口座に振り込まれてきます。

サラリーマンの友人や独立志望の知り合いに、「経理処理ってどうしてるの?」とか「確定申告って面倒なんでしょ?」とか聞かれることがあります。

その答えとしては、いつもこう答えています。「慣れれば簡単。間違っても簿記の勉強などをしてはいけない。」

私のお勧めは、サラリーマン時代に一度確定申告を自分でやってみることです。特に今年は、東日本大震災の関係で寄付をした人も多いと思います。

サラリーマンでも確定申告をすれば、払った寄付金の一部は戻ってきます。

「マイクロ法人」を目指すのであれば、来年2~3月に、一度自分で確定申告をしてみてはいかがでしょうか?

すると否が応でも税金の仕組みが気になりますし、一度やってみれば怖がることはないということが体で分かると思います。

また、サラリーマン→サイドビジネス→フリーランス→「マイクロ法人」という一連の流れをステップを踏んで進めば、経理処理や税務処理について、無理なくスムーズに対応できると思います。

 

協力会社

私の「マイクロ法人」は、お金を払って外部の方々にいろんな仕事をお願いしています。

それは、
グラフィックデザイン、印刷、DM発送、WEB制作、インターネットマーケティング、テープ起こし、税理士、司法書士などなど。

この依頼先(外注先)として、「マイクロ法人」や個人事業主とお付き合いしています。

彼らと上手にネットワークを組みながら仕事をすると、仕事のスピードとクォリティーが一気に上がります。

アイディア社でも、気心の知れた研修講師など、数多くの「マイクロ法人」と取引をしながら業務を進めています。

相性のよさそうな人達を見つけて、一緒に仕事を何度かしていくと、とても強力なチームができあがっていきます。

一つのプロジェクトに関して、異なる得意分野を持つ自立した「マイクロ法人」達がチームを組んで大きな仕事に取り組んでいく。

このハリウッドの映画制作のようなプロジェクト型のワークスタイルが、この日本でもどんどん増えていくような気がしています。

 

法務業務

法人登記の変更について、今はすべて司法書士に業務をお願いしています。父の会社を引き継いだ頃は、自分で法務局に行って必要なすべての手続きを自分でやっていました。

しかし、経理処理と異なり、毎年発生する作業ではないため、途中から司法書士にお金を払ってすべてを任せることにしました。

外注するか自分でやるかの判断は、
・その作業は繰り返し発生するか?
・その作業を自分でやる経験が今後の役に立つか?
という2つのポイントで判断しています。

繰り返し発生して、経験回数を蓄積することによって、自分の役に立つことは、基本的に自分でやることにしています。

私の場合、経理業務(記帳など)がこれに当たります。

一方、法務業務については、定期的にではなくスポット的に発生する業務ですし、毎回異なる対応が求められるため、外注対応としています。

 


「マイクロ法人」の実態
【ワークアウト編】


雇われない/雇わない生き方

「マイクロ法人」のワークスタイルは自由です。

朝何時に起きても、やることをやれば何の問題もありません。

平日の午前中に映画を見に行くことも、天気のいい日にふらっと海へドライブに行くのも、すべて自分の自由です。

雇われていないから自由なのですが、社員を雇っていないから自由とも言えるのです。

3年ほど前までは、このようなその日暮らしのワークスタイルがカッコイイと思い、そんな感じでやっていました。

しかし、最近は、限られた時間の中、仕事で大きな成果を出すためには、規則正しい生活をした方がうまく行くということが、体で分かってきました。

そのため、普段は朝5時~6時の間に起床。家族が寝ているうちに少し仕事をして、7時過ぎには自宅を出発。

そのまま客先に向かうときもありますし、訪問先近くの喫茶店で仕事をしたりします。

昼間は目一杯仕事をした上で、できるだけ夜9時までには自宅に戻るようにしています。帰宅後は、自宅で夕食を取り、息子と少し遊びます。息子が寝付いたら、自宅で仕事をして、24時~25時の間には寝ています。

土日もできるだけこのリズムを崩さないようにしています。やはり朝は5時~6時の間に起きて、家族が寝ている間は、自分の部屋に籠もって仕事を始めます。

その後は、その日の予定に合わせて臨機応変に過ごしています。

今までいろいろなワークスタイルを試してみましたが、規則正しい生活をした方が、いろんなことがうまくような気がします。

サラリーマン時代は、会社の出勤時間という強制力が働いているので、自動的に生活は規則正しくなります。

フリーランスや「マイクロ法人」には、会社という強制力はなくなります。その分、自分で自分らしい強制力を自分に掛けて、自分らしいワークスタイルを築き上げていくことが得策です。

 

海外出張

今年に入ってから、4回海外出張に行きました。

             4月 香港(平先生のセミナー)
             5月 フェニックス・セドナ(Herv Ekerのセミナー)
             5月 オーランド(人材育成業界の国際会議)
             6月 上海(神田昌典先生のセミナー、現地視察)

自分の興味が向いたり、自分の目で現場を見る必要があると思えば、できるだけ自分の足で現地に向かうようにしています。

インターネットや本で知る情報と、自分が感じる現場の情報とでは、その密度がまったく違います。

異国の地で普段とは異なる濃い情報に直接触れると、自分の頭が勝手にアイディアをつくり始めます。

 

日常から意図的に離れる

国内でも意識して日常から離れる体験を取り入れています。

3月の震災直後に家族を妻の実家の上海に帰した後、東京を離れ一人旅に出ました。

・福井県あわら温泉でラーメン屋さんを経営する友人を訪ね、
永平寺、東尋坊などを一緒にドライブしながら語り合う

・関ヶ原の古戦場に一人立ち、400年前に思考を飛ばす

・鎌倉で一人合宿を張り、アイディアを出しまくる

 

また、この夏には、仲間と一緒に35フィート級のヨットでクルージングにも出ました。

・夜の23時に葉山マリーナを出航して、夜中の相模湾をひたすら
ヨットで走る

・伊豆の先端石廊崎に入港し、地元の人との会話を楽しむ

・翌日は魚釣りをしながら伊豆半島東岸を走り、熱海に入港

「マイクロ法人」として様々なことを自分でコントロールしながら暮らしていると、「井の中の蛙」に陥る恐れがあります。

それを避けるために、あえて意図的に非日常体験を取り入れるように、気をつけています。

 

計測されるものは改善される

これは、平先生のプライベートクラブで一緒に学んでいる川村社長から教えていただいた言葉です。

この言葉を来た瞬間、ピンと来るものがあったので、自分の身近な事柄に、この方法を取り入れてみました。

 

レコーディングダイエット

「いつデブ」の岡田さん

をご存じですか?

体重や食事のカロリーを記録するだけで、一年間で50キロの減量に成功したという岡田斗司夫さん。

ご自身のダイエット体験を元に、誰でも結果を出せるノウハウとしてまとめたのが次の本です。

レコーディング・ダイエット決定版 (文春文庫)

震災後、家族と離れて一人暮らしをしていた3ヶ月で随分太ってしまいました。そのため、この本の教えに従い、最近ダイエットに取り組んでいます。

・毎朝起きたらすぐ体重計に乗る
・計った体重と体脂肪率をカレンダーに記録する

たったこの作業を続けただけで、6月末に82kgあった体重が、8月末には74kgまで減りました。(デブは痩せやすいだけかも?)

その後、9月に入ってから食事で摂ったカロリーも記録するようになってから2週間ほど経ちますが、もう2kg痩せて今は72kg。

大学卒業時の体重にまで戻りました。これで第一目標は達成。

これほどまで成果が目に見えると、どんどん面白くなってきました。そして今は調子に乗って、大学入学時の68kgまで落とそうと、第二目標を設定して取り組んでいます。

無理は一切していません。とにかく、つらくないのです。(つらいことは、続けられないので・・・)

つらくないと言うよりも、楽しいのです。毎朝体重計に乗って、

「おお、昨日より0.2kg減った」とか、
「0.8kg増えたけど、昨日は確かに沢山食べたからなあ~」とか、

数字を見て一喜一憂する自分のバカさ加減を楽しんでいます。

そんなバカげたことをしながら、川村社長の教えてくれた「計測されるものは改善される」という言葉が持つ意味の深さを噛みしめています。

これも、まだ一度もお会いしたこともない岡田さんという専門家が、結果の出る方法を本を通して教えてくれたお陰なのです。

この出来事の本質は、当然ビジネスにも応用できるよね?という感じがしています。

 

苦手な英語をモノにする方法

私、実は英語が苦手です。大してしゃべれません。

東大を卒業した時、あまりに周りがペラペラ英語をしゃべれるので、自称「東大で一番英語がしゃべれない男」を名乗っていました。

イギリスの工場建設の仕事を日本にいながら2年半、最後は半年現地に駐在したにも関わらず、ロクにしゃべれないまま仕事をやっていました。

エンジニアなので、図面を持って現場に行けば、片言の英語でもなんとかなってしまったのです。

現在、アイディア社の仕事として、グローバルで通用する人材を育成するという人材育成コンサルタントをやっていますが、当の本人はお寒い状況です。

これではいけない。

昨年春のアメリカ出張で英語ができずかなり悔しい思いをしたので、一念発起して英語の勉強を始めました。

本格的に英語を勉強するのは、大学受験の勉強以来、25年振りのことでした。

 

今まで英語を勉強しようと思っても、結局は続かない。

そこで今回は、学習のペースメーカーとして、TOEIC®という英語のテストを毎回受けることに決めました。

自分がどれだけ勉強したら、どれだけスコアが伸びるのか。自分の実力を計測しながら学習することに決めたのです。

(TOEIC®公開テストは年間8回開催されます)

今思えば、まだ川村社長からこの魔法の言葉、

計測されるものは改善される

を教えてもらってはいませんでしたが、それに近いことを考えていたことになります。

昨年夏、10数年ぶりに受験したTOEIC®のスコアは760点。予想していたより、随分高い点数を取ってしまいました。

(TOEIC®の満点は990点)

 

最初は低い点数から始め、勉強するに従いどんどん伸びていくことをイメージしていた自分には、ちょっと困った高得点でした。

今後の点数の伸びに一抹の不安を抱えながらも、きっと点数は伸びていくだろうと楽しみにしていましたが、それが思うように伸びないのです。不安が的中しました。

通勤時間を利用して、毎日最低30分は英語を勉強するようにしました。平均すると毎日1時間程度は英語を勉強していたはずです。

しかし、その後のスコアは、(760) → 770 → 795 という感じで停滞気味。

「次こそは800点突破!」と意気込んで受けた10月末のスコアは780点。なんと15点下がってしまったのです。

760 → 770 → 795 → 780

これで英語の勉強を続ける気力が無くなりました。

 

しかし、昨年末に女神様のような女性と出会うことができました。

その方は、OLとして勤めた会社を辞めて、自費でイギリスの大学に留学し国際政治学を勉強。

日本へ帰国してからまだ日が浅く、しばらくの間、英会話学校で講師をしている。

ゆくゆくは自分で独立して英語を教えていきたいという、独立志向を持った女性でした。

そして、なんと美人なのです。

そこで私は、

TOEIC®のスコアが上がらなくて困っています。
どうしたらいいのでしょうか?

と素直に相談してみました。

 

そしたら、その美人先生は、

影山さんに合った、
影山さんだけの勉強法を
つくって差し上げますよ

と夢のようなことを言ってくれたのです。

続けて、
公式問題集を解いて、
その採点結果を私にメールで送ってください。

そうすれば、影山さんの強みはどこで、弱点がどこなのかすべて分かります。

後は、強みを活かし弱点を補う勉強法を、私が作ってみますから、 影山さんはそれをやってみてください。

このありがたいお話を聞いた私は、その翌日に公式問題集vol.4を買ってきて、模擬試験を1回分やって、その採点結果を彼女へ送りました。大晦日のことです。

そして、正月三が日も明けぬ1月2日、女神様からWORDファイルが添付された一通のメールが届きました。

 

影山勝巳さんへ

TOEIC®短期間スコアアップ
900点への道

TOEIC®の学習で短期間にスコアアップの成果が出やすいのは、Part2、Part5だと言われています。

そしてPart 6 、Part 1、Part 7と続き、最もスコアアップが難しいのが、リスニングのPart4です。

これを考慮し、文法、リーディング、ボキャブ、リスニングの順で対策法をあげました。

(以下つづく)

 

この続きとして、どの問題集を使ってどのように勉強すればよいのかが、対策項目毎に詳しく書かれていました。私のためだけのTOEIC®対策学習法を手に入れることができたのです。

そして、誰もがゆっくり休みたいお正月に、私のためにわざわざ時間をつくってくれた美人先生の期待に応えたいという思いも、とても強く湧き上がってきました。

次回のTOEIC®公開テストは1月30日。
あと28日しかありません。

そこからは、余計なことを考えずに、毎日彼女の指示書に従って勉強を進めました。本当は毎日2時間以上勉強したかったのですが、平均してみれば1時間15分程度しか勉強できなかった計算になります。

 

そして、試験本番当日を迎えることに。

※その時の様子は、私のブログに詳しく記してあります。

TOEIC®受験が教えてくれたこと
(2011年1月30日 日曜日)
http://hentaichange.blogspot.com/2011/01/toeicr.html

TORIC®受験 その最中における感情の動き
(2011年1月31日 月曜日)
http://hentaichange.blogspot.com/2011/02/toricrdeno.html

 

折角、女神様に力になってもらったのですから、是非いい点数を取りたい。

そう意気込んではいたのですが、受験後の手応えはかなり微妙。うまくできたのか、ダメだったのか、さっぱり分からないのです。

それから、約3週間経ったところで、TOEIC®テストの採点結果を知らせるメールが届きました。

TOEIC® SCORE
890
(Listening 480、Reading 410)

 

前回10月末の受験結果は780点でしたから、110点もアップしたのです。前回の受験以降勉強したのは1月2日からでしたから、わずか28日間の勉強で110点もスコアが上がったことになります。

Listeningの満点は495点ですから、Listening Partに関してはほぼ満点というところまで一気に伸びたのです。

(前回Listetning Partのスコアは400点)

これには本当にビックリしました。

※その時の様子も、私のブログに詳しく記してあります。

TOEIC®の結果報告
(2011年2月22日 火曜日)
http://hentaichange.blogspot.com/2011/02/toeic.html

このTOEIC®に関する自らの体験を通して、次の3つの教訓を得ることができました。

計測するものは改善される
(この場合はTOEIC®テストの継続受験)

先生はやはり重要、大切
(いい先生がいるのといないのでは、結果は雲泥の差)

自分のモチベーションのツボを押さえれば
成果は出せる
(美人のためになら頑張れる。これが私のツボでした)

 

初めてTOEIC®を受験したのは、JTに入社した時なので、今から20年以上前のことになります。その時の点数は475点。

その時以来、

TOEIC®の点が高くて何の意味があるのか?

とTOEIC®のことを半ばバカにしてきました。

しかし、今思うには「TOEIC®のテストそのものには意味がない」
かもしれないが「自分の実力を定期的に計る」ことにはとてつもなく大きな意味があるということです。

 

このレポートのメインタイトルは、

世界はチャンスで溢れている!

としています。

そんなチャンスが溢れる世界で大暴れするために、英語は使えた方が便利な道具だと思います。

私は、日頃、人材育成コンサルタントとして、企業向けにグローバルで活躍できる人材を組織的に育成していく具体策を提供しています。

その積み重ねてきた経験を、今後は世界へ飛び出そうとする個人向けにも展開して、意欲ある方々の力になりたいと思っています。

そこで、近い将来、世界で活躍することも視野に入れている「マイクロ法人」を目指す方々のために、

「英語という道具を最速最短で手に入れる方法」

をまずはレポートにまとめて、また別の機会にご紹介していきたいと考えています。

 

人を動かす極意の身に付け方

まずはこちらをお読みください。




この本を7回読んだら
一億円差し上げます。

 

日本一の商売人と言えば、どなたを思い浮かべますか?

松下幸之助さん?それともソニーの盛田昭夫さん?
そんな方々を思い浮かべる人も多いかと思います。

それでは、現在生きている現役の商売人で日本一の方はどなたでしょうか?

私なら、「銀座まるかん」の創業者である斎藤一人さんが思い浮かびます。 なんといっても、納税額日本一の実業家なのですから。

納税額日本一とは、個人として取っている収入が日本一であることを意味しています。

さて、その一人さんが、今年出版された「強運」というご自身の著書のなかで、こんなことを語っています。

「一人さんの本を読む時間があったら、ある本を7回読め」

 

その「ある本」とは、どんな本なのでしょうか?

それは、アメリカのデール・カーネギーが書いた「人を動かす」という本なのです。

今から74年も昔に書かれた本で、カーネギー自身は55年前に亡くなっています。

そんな昔の本を、日本一の商売人が自分の著書を差し置いてでも「7回読め」と言っている訳ですから、しっかり7回読みこなしたら、きっと一億円以上の収入が飛び込んでくると思うのです。

なんと言っても、日本一の商売人からのアドバイスなのですから。

 

そこで、みなさんに質問です。

本当に7回も読めますか?

適当に7回読み流すことはできるかもしれません。
かなり頑張れば。

しかし、ただ読み流すだけでは一億円を手にすることは難しいはずです。

本に書いてある内容を噛み締めながら読み進め、書いてある教えに従い、自分で実際に行動を起こす。

そんな読み方をしないと、一億円を実際に手にすることはできないと思います。

 

私は、日本一の商売人の教えに素直に従い、一億円を手に入れたいと思いました。

そして、行動を起こし始めてみました。

さて、みなさんは、いかがでしょうか?

もし、私と同じように、この一億円にチャレンジしたい方がいるのなら、是非一緒に挑戦したいと思いました。

そこで準備した企画がこれ。

「カーネギー・セブン」
という名のプロジェクト

「マイクロ法人」として自由な人生を目指す方々と一緒に、一億円を手にすることにチャレンジしてみたいのです。

それでは今から、その一億円を手に入れる具体的な方法をご紹介していきたいと思います。

 



こんなことを考えたそもそものきっかけは・・・

今年7月2日土曜日に、平先生のプライベートクラブという勉強会にいつものメンバーと一緒に参加した時、平先生から出た次の一言でした。

あの一人さんが「強運」という本の中で
カーネギーの「人を動かす」を7回読みなさい

と言っているよ

「強運」 斉藤一人(著)
「人を動かす」 デール カーネギー (著)

 

「7回も読んだ本が自分にはあるのか?」

すぐにそう自問しました。

確かに2冊、7回以上読んだ本はあります。

しかし、それは小説です。7回も読んだ自己啓発書やビジネス書は、一つも自分にはないのです。

日本一の高額納税者である斎藤一人さんが「日本一の商売人」と平先生が認める人の言うことなら、そのまま素直に実行してみようと思いました。

そして、早速「人を動かす」を読み返しました。

一番最初に読んだのが10年くらい前。
二度目に読んだのが、昨年の3月。
そして、今度が三度目となります。

折角なので、今回はゆっくりじっくり噛みしめながら読む作戦でいこう。そう思い、まずは三回目をゆっくり読み進めていきました。

 

しかし、困ったことに気付きました。

とっても、読みにくいのです

「人を動かす」はエピソード集とも言えるほど、膨大なエピソードで構成されています。そのエピソードのほとんどがアメリカの古い事例のため、とにかくピンと来ないのです。

まず人の名前がカタカナなのがしんどい。それが何人も何人も、次から次へと違う人が登場するのです。

確かに、一度や二度読んだだけでは、頭に入らないはずなのです。
(一人さんの言うとおりです)

 

そして、こんな風にも感じました。

頭に入れても、実践できなければしょうがないな~

要するに、「分かる」と「できる」では大きく違うということなのです。

「分かる」だけでなく「できる」ようになるためにはどうすればいいのか?そんな質問を自分に投げ掛けてみました。

すると出てきたアイディアは、

「問題集」

というコンセプトでした。

 

その昔、高校受験から大学受験の勉強をしている頃、私は「参考書マニア」でした。

本屋に週に何度も立ち寄り、参考書をあれこれ手に取りながら
「もっとよい勉強法はないか?」
「もっとよい参考書はないか?」
そんなことばかり考えていました。

呆れた話なのですが、実際に勉強をする時間より、勉強法を考えている時間の方が長かったかもしれません。

そんな参考書マニアの私が、その時意識していたことは、参考書と問題集の相性でした。

どんなによい参考書でも、「なるほど、なるほど」とうなづきながら解説を読むだけでは、実際に問題を解けるようにはなりません。

参考書で学んだやり方を実際に使って、数多くの問題を解くことで初めて、学力が高まることは間違いありません。

そのために探し求めたのが、効果の出る「問題集」だったのです。

 

そんな昔のことを思い出し、カーネギーの「人を動かす」を本気でマスターしたいのなら、その「問題集」があればよいのにと素直に思えました。

しかし、そんな問題集はあるはずもないのです。
(あまりに当たり前なのだが・・・)

 

だったら・・・、自分でつくってみよう!

そう無謀にも思い立ってしまったのです。

そして、その後、できるだけ毎日毎日、自分のブログに「問題集」を書きためていくようにしました。

その内の1問を紹介するとこんな感じです。

 


カーネギーからの質問 #007

Q.
アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは
人を動かす達人だった。

その彼が自分の墓に刻む墓碑銘として自ら書いた言葉に、
彼の人柄が端的に表されている。

彼の墓に刻まれているその言葉とは何か?


A.
おのれよりも賢明なる人物を身近に集むる法を心得しものここに眠る
(書籍「人を動かす」の和訳文)

自分より賢き者を近づける術知りたる者、ここに眠る
(引用元: http://systemincome.com/5462)

Here lies one who knew how to get around him men who were cleverer than himself.
(原文)

※「人を動かす」p.43参照


さて、いかがでしたか?

この事実を解釈する方法はいくつもあると思うが、
デール・カーネギーが着眼した点は次の通り。

**********

カーネギーは、他人のことを、
自分の墓石にまできざんで賞賛しようとした。

**********

さすが、すごい。すごすぎる。

※ここで、二人のカーネギーを紹介しているが、
アンドリュー・カーネギーは「鉄鋼王」
デール・カーネギーは「人を動かす」の著者で
別人であることを念のため記しておく。

 

さて、鉄鋼王カーネギーがUSスチール社を設立した時に
社長として迎えた人物は
チャールズ・シュワッブという38歳の実業家であった。

シュワッブ自身も、カーネギーに負けず劣らずの
人をあつかう名人だった。

そのシュワッブ自身が語る、人をあつかう秘訣とは・・・

**********

わたしには、人の熱意を呼び起こす能力がある。

これが、わたしにとっては何ものにもかえがたい宝だと思う。

他人の長所を伸ばすには、
ほめることと、励ますことが何よりの方法だ。

上役からしかられることほど、向上心を害するものはない。

わたしは決して人を非難しない。

人を働かせるには奨励が必要だと信じている。

だから、人をほめることは大好きだが、
けなすことは大きらいだ。

気に入ったことがあれば、心から賛成し、
惜しみなく賛辞を与える。

**********

また、次のようにも語っている。

**********

わたしは、これまでに、
世界各国の大勢の立派な人々とつき合ってきたが、

どんなに地位の高い人でも、小言をいわれて働くよりも、
ほめられて働くときのほうが、

仕事に熱がこもり、出来ぐあいもよくなる。

 

その例外には、まだ一度も出会ったことがない。

**********

 

実はこのことが、
鉄鋼王カーネギーの大成功の鍵なのだと、
シュワッブはいっているのである。

 

カーネギー自身も、
他人を、公私のいずれの場合にも、
ほめたたえたのである。

 

賞賛する

ほめる

励ます

奨励する

賛辞を与える

ほめたたえる

このような、
相手の「自己重要感」を高める心からの言葉が
人を動かすコツなのである

とデール・カーネギーは教えてくれている。

 

【やってみよう!】


明日会う予定の人の中から一人選んで、
その人をほめると今決めよう。

そして、その人に何と言ってほめるのか、
心からの言葉を考えてみよう。


(影山の場合)

あの人をほめると決めた。
(これは直ぐ決まった)

その時掛ける言葉も決めた。
(結構考えた上で決まった)

さて、実践するとどうなるか?
(ちょっと怖いけど楽しみ。)

 

自分のブログで「問題集」を書きためている内に、周囲から反応が集まってきました。

          「随分、変わったことをやっているね~」

          「私もそれをやってみようと思います」

          「昨日のブログを見てやろうと思いましたが難しい・・・」

          「私も自分なりに問題を作ってみます」

 

どうやら、周りの方のお役に少しは立てる可能性があるようです。

実際に「人を動かす」を繰り返し読み(問題集をつくるために、読まざるを得ない状況になっています)問題をつくっている内に、自分の行動が変わり始めています。

カーネギーが教えてくれたことのまだまだ10分の1くらいしかできていませんが、違う見方をすれば、10分の1くらいはできるようになってきた。

少なくとも進歩はしているということです。

人と接するときに、「あっ、なぜ今こんなことを言ってしまったのだろう。カーネギーの教えによれば、こうすればよかったのに」と気付かされる毎日です。

しかしこれも、もしカーネギーの本をじっくり読んで問題集をつくっていなければ、ダメな行動に気づかないままだったと思います。

少なくとも今の自分は、間違った行動の半分程度には、後で気付くようになってきました。

気がつきさえすれば、直すチャンスは生まれるはずです。

そう信じて今「カーネギー・セブン」(カーネギーの本を7回読むこと)に取り組んでいます。

 

「マイクロ法人」を目指す人にとって、「人を動かすスキル」は極めて重要だと思います。

サラリーマン時代なら、
会社の看板でお客様が動く
役職が上なら部下が動く
入社年次が先輩なら後輩は動く

そんな便利な人の動かし方もあるかと思います。

しかし、「マイクロ法人」になれば、今までの便利な人の動かし方はまったく通用しないはずです。

そういった意味で、カーネギーの「人を動かす」は、「マイクロ法人」を目指す人の必修科目とも言えるかもしれません。

カーネギーは「人を動かす」本質を教えてくれています。

時代が変わっても、技術が進んでも、人間の本質はそうは変わらないはずです。

今後、この「カーネギー・セブン」というプロジェクトも、準備が整い次第発表する予定です。

 

出版

この秋にダーキーさんと共著で出版を予定しています。

 GO GLOBAL!
 さあ、グローバル人材を育成しよう

 ジェイソン・ダーキー、  影山 勝巳(共著)

kageyama sedona
 

 

本書の内容:
グローバル化の加速が求められている日本企業に向けて、そのグローバル事業を担う人材をいかに戦略的に育成していくべきか。

数々の企業に向けてグローバル人材育成の支援を行ってきた二人の著者が、成功するグローバル人材育成の具体策を紹介します。

 

出版のプロジェクトを立ち上げたのは昨年末のことでした。ほぼ1年の時を経て、ようやく出版の目処が立ちました。10月出版を目指して、今最終的な追い込み作業に取り組んでいます。

日本企業で働く多くのサラリーマン達が、世界を舞台に堂々と渡り合っていく。そんなシーンが世界中のあちらこちらでどんどん増えていく。

それを実現するために、企業におけるグローバル人材の育成は、もっともっと効果的に進めることができるはずです。

そんな思いを込めて、自分たちが今まで手掛けてきたプロジェクトの成功ノウハウを、広く世の中にお伝えすることにしました。

チャンスが溢れる世界に向けて・・・

企業はグローバル事業に対しより本格的に取り組んでいく。

そこで働く人達も、物怖じせずに世界へと打って出る。

会社を卒業した「マイクロ法人」の多くも世界を相手に商売する。

 

このことが、

この「残酷な時代」(閉塞感に覆われた今の日本)で生き残る有効な方法の一つであると信じています。

 

 

最後にお伝えしたいこと


ここまで、私がサラリーマンから「マイクロ法人」へと変化し現在に至るまでの軌跡を、順を追って正直にお伝えしてきました。

そして、私の体験を伝える過程で、以下の11個のテーマを取り上げてきました。

sankaku 自由に生きるための戦略

sankaku サラリーマンであることのリスク

sankaku サラリーマンに作用する引力

sankaku 独立起業の失敗事例

sankaku スティーブ・ジョブスの教え

sankaku 運がよくなる秘訣

sankaku 「マイクロ法人」が大手企業を相手にできる理由

sankaku 雇われない/雇わない生き方

sankaku 計測されるものは改善される

sankaku 苦手な英語をモノにする方法

sankaku 人を動かす極意の身に付け方

 

沢山の時間を掛けて、このレポートを最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

 

私のささやかな経験をご紹介することで、
自分自身が「マイクロ法人」へと変化していくイメージや
「自由に生きるための戦略」を考えるヒント
を掴んでいただけたのであれば、心からうれしく思います。

 

今後も、様々な形で情報をお伝えしていきたいと考えております。

その情報発信源は、主に以下の2つを予定しています。

 

ブログ「マイクロ法人」でいこう!
http://hentaichange.blogspot.com

facebookページ「マイクロ法人」影山勝巳の公式ページ
http://www.facebook.com/project.kageyama

 

それでは最後に、このレポートの冒頭でご紹介した、作家の橘玲さんが、「貧乏はお金持ち」という著書のまえがきで書いたメッセージを改めてお読みください。

いま必要なのは、
自由に生きることの素晴らしさをみんなが思い出すことだ。

「安定」を得る代償に「自由」を売り渡すのはもうやめよう。

そんなことをしたって、
会社がつぶれてしまえば
結局なにもかもなくなってしまうのだから。

ここで言いたいのは、
「サラリーマンを辞めて独立しよう」とか、
そういうどうでもいいことじゃない。

一人ひとりが「自由に生きるための戦略」を
持たなきゃいけないっていうことだ。

 

このレポートの冒頭で初めて読んだ時比べ、なにか感覚の違いはありましたか?

そして、同じ本の最後にあるあとがきを、橘氏は次のメッセージで締めくくっています。

本書を機に「マイクロ法人」という造語は
ひろく使われるようになったが、
そのための有効なマニュアルはまだまだ少ない。

自らの経験に基づいたさまざまな情報が交換されることで、
一人でも多くのひとがこの
「自由に生きるための道具」
を使いこなせるようになれば素晴らしいと思う。

2011年2月 橘玲

 

「マイクロ法人」に関する私の体験は、ここまでいろいろとお伝えしてきました。

今度はあなたの番です。

「マイクロ法人」を目指して、具体的な行動を起こし始めるあなたの体験を、機会を見つけて是非教えてください。

 

さあ、みんなで自由に生きる素晴らしさを思いだそう!

 

2011年9月

影山勝巳